高齢者の運転免許と社会のリスク

終戦後の復興の中、車社会の黎明期に運転免許を取得した世代は、高度経済成長を成し遂げ、先進国の地位を維持してきた。その力強い世代も今では高齢者と呼ばれる年齢に達して、もはや身体の衰えを隠すことが出来なくなってしまった。その世代が高齢化社会を形成し、日本社会に歪みをもたらし始めたのは皮肉なことである。

高齢化社会を迎えて無視できない社会的リスクの一つに高齢者の自動車事故である。事故を起こすまでは免許を返上せずに、危なげな運転を続けている現状は、日本社会が抱える悩ましい問題の一つである。

先日も齢八十を超える老人が駐車場で操作を誤り、車を塀に激突させる事故が起きた。塀も車も大破したが、老人は事故後の対応を全くせずに、ただウロウロしているだけであった。気が動転して事故対応が出来ないのではなく、認知症の為に事故が理解出来ずウロウロしているのであった。連絡を受け駆けつけた家族は、事故車を放置して、遠くを見つめる表情の老人をただ連れて帰った。

現在、高齢者の免許更新で許可されないのは、認知症状が高度に進んでいる場合のみで、危険回避能力の低下は適切に評価されていないのではと思われる。むしろ更新許可を得たことにより高齢者に不適切な自信を与えて、自分まだまだ大丈夫であると錯覚させている。適性試験に合格し、若い人以上に優秀な結果であると、自慢げに話す老人をみるとゾッとする。私は若い人と同じだと思いたいだろうが、そうではなく加齢に伴う身体能力の衰えを常に自覚し慎重に運転することが必要である。

自動車の運転免許は公共社会が個人に許可するもので、個人の権利でもプライドの問題でもない。変形性関節症が進みヨタヨタ歩きで自転車も既に乗れなくなった老人に、殺人凶器に直結する自動車の運転免許を形式的に更新させている行政にも問題がある。

子供の飛び出し、前を走る自転車の転倒などが発生した時に、避けられず轢いてしまっても自分には非は無いと明言するが、老化に伴う身体能力の低下の為に、回避出来る事案でも回避出来ていない事こそが問題である。人生の最後にこそ、若い世代の安全を優先する徳が必要である。一方で若い世代も、高まる高齢者リスクをどの程度まで許容できるかを深く議論する必要がある。

1枚の免許が返上される為には、大きな物損あるいは被害者の発生を必要としている現状は、旧日本軍の論法、もしくはテロ集団のプロパガンダに出てくる、一人が一人を殺せば勝利する、とする損得勘定と同じに思えて恐ろしい。