三浦瑠麗の思想劣化が止まらない。朝まで生テレビで暴言

平成31年4月27日未明、朝まで生テレビは酷かった。田原総一朗の老害は言わずもがなであるが、お抱えコメンテーターの一人である、三浦瑠麗の思想劣化が著しかった事が印象的で、今回の彼女の皇室に対する暴言を書き残すことにした。

三浦瑠麗にとっての朝まで生テレビは、事前に知らされたお題目で、たっぷり予習時間を与えられてのディベート発表会であり、今では彼女のホームグランドになっている。三浦の目つきはというと、出演当初は政治的に中道右派の印象が強かったが、最近では政治色が薄まってきた一方で、自己利益を追求する経済的保守の印象が強い。かつて、その瞳の中に輝いていた若き日の理想は、齢を重ねるにつれ色褪せてゆき、今では家業に於ける強欲からか、守銭奴が瞳の中に宿るに至っている。

さて、今回の放送テーマは経済でなく、国体と天皇がテーマであった。しかし、思想劣化が著しい三浦瑠麗には、損得の二値論理でしかディベート出来なくなってしまっている為、日本民族の歴史と未来を語る今回のテーマでは、少し荷が重すぎたようである。三浦は殆ど視聴者の共感を呼ぶような発言が出来ずにいる事に焦りを見せていたが、ついに皇室に対してとんでもない暴言を吐いてしまったのである。

それは、皇統の安定性について討論が行われている中で起きた。次代に於いて、皇統が浩宮から秋篠宮に移る原因に関して、三浦が突然持論を展開し始めたのである。そう、不妊の原因が男性に在れば、その男系は必ずそこで途絶えるのである。そして、今それが起きた可能性を強く主張した。更に、雅子妃殿下が病に伏せるに至った原因は、皇室外交への失意、不妊の病因を持つ皇太子殿下との間での不妊治療、周囲のお世継ぎ待望の重圧にあったと主張した。これらを以て皇太子殿下との夫婦生活は、正に病原の培養器であるかのように評価したのである。そこでは、弱き雅子妃殿下に代わって、強き自分が国民に向かって抗議するのは正義であると陶酔する三浦の姿がテレビに映し出された。しかしこの時、多くの視聴者が三浦の言葉に絶句し、憎しみの感情を抱いたのが事実である。

此処で少し詳しく状況を分析してみよと思う。まず三浦瑠麗が、作戦を立てずに当日出席する事は無い。番組で発した持論は、幾晩も考え練って立てた作戦である。恐らく、皇統の正当性を日本史に置く事に逆らってディベートしても負けてしまう事は判っているので、番組の視聴者を味方に付けて自身の存在感を高める為に、論点を女性差別問題に落とし込んでリードする計画を練ったに違いない。そして天皇について討論する番組の冒頭で、三浦は雄鳥を誘惑する雌鳥の様な奇抜な服装で登場して、先ず視聴者を挑発する所から始める。当然、誰を意識して競い合っているのかは自明である。さて討論が始まって、男系皇統の正当性や象徴天皇の意味づけでは、それ程注目する発言はしていない。恐らく、女性差別に的を絞っていたと考えられる。そして、討論に男性と女性がキーワードに上がり始めると突然、三浦は村上祐子キャスターの週刊誌報道を受けての出演自粛に噛みついた。あまりに話が唐突で呆気にとられた。ここから三浦は、女性差別問題が皇室問題の主題と位置づけて持論を展開し、遂には前述の暴言に至るのである。そこで述べた三浦のキーワードは全て、当日まで何度も繰り返し確認してきた言葉である。しかしその反響は三浦が期待したものとは違っていた。視聴者の多くが三浦の主張に強い拒否反応を示したのである。妃殿下の心を理解せず、自分は世間より高位に在ると勘違いする中での、畏敬を持たない非国民の暴言になっていたのである。

まことに不謹慎な憶測ではあるが、原因が自分に寄らない時に、絶対的自信を持つ者が発病する事はあり得ないのである。産科学も精神科学も、三浦の推論を全否定する。多くの国民が理解している病因は、皇太子殿下が妃殿下をお守りしますと言った優しさに、妃殿下が悩み続けた事に在って、若き夫婦の愛情がもたらした悲劇である。医学的責任感の葛藤ではなくて、夫婦愛に答えようとする妃殿下の責任感が強すぎた事が主因である。三浦瑠麗には、日本の若き夫婦が抱く愛情と葛藤が、全く理解できない異状性が在る。

我々国民が観るテレビの中には、国民象徴の一翼を担う優しき者であろうと努力され続ける妃殿下がおられる。一方で、私利私欲を刹那に考え続けながら強欲の権化へと脱皮を繰り返す三浦瑠麗も棲んでいる。国民は、その表情、言葉使い、仕草から、両者を見誤ることは決して無い。同じ最高学府の一つである東京大学で学んだとしても、国民の幸せだけを考える女神になる者や、いつも頭の中でどうすれば自分が得するかを考え続ける者も居る。人格と気質は、変えようのない宿命なのか、それとも生活環境が決定するものなのか、その答えは慎重に観察すれば明らかである。他者を思いやる責務の毎日と、私欲に生きる毎日とでは、ここまで対立する事象を生み出すのである。国家国民の象徴は、此処を探せば見つかるのである。

今日は長くなってしまったが、最後に一言書き加えたい。今後一切、三浦瑠麗に、日本の国体、皇室、夫婦愛に関しては、暴言を吐く機会を与えさせるなと言いたい。我欲が満たされるなら、国体と象徴が破壊されても構わないと考える反逆者に、公共電波における言論の自由は無い。テーマに配慮しない服装を着て、女王気取りで相手や視聴者を見下す夢を見ながら、いつまでも政治経済の檻の中に囚われていれば、それで良い。

まもなく日本国は、新しい天皇と共に令和の時代を歩み始める。万歳!我が日本国に幸多かれ!