報道番組と鋏は使いよう
偏向報道と言ってよいテレビ報道が目に余るようになった。明らかに多数の民意とかけ離れた少数偏向意見を、毎日のテレビ放送スケジュールに組み込んで全国に流し続けている。厄介な事だが、ただその事により国民が混乱しているかと思えばその様な事実は無く、テレビという強大な広報力を持ってしても、少数偏向意見が多数に取って代わる事はない。それだけ現在の国体は民主的に成熟していると言える。一方で、老舗メディアといえ、悪意を持った差別報道や虚偽の報道をすれば、必ず社会から弾かれる。人権を顧みない首長の出自報道、戦時下娼婦の強制連行と言う虚偽報道などは、日本のメディア史を汚す恥ずかしい記憶となった。
では何故、偏向報道番組が今も生き続けるのであろうか。報道番組とはいえ多分に漏れず、立派な企業がスポンサーに付いている。企業宣伝の費用対効果が厳しく評価されての継続である。まさか報道番組のスポンサー料が破格割引されている事は無いであろう。やはり現実に、合理的な費用対効果が得られているのである。ドラマは初回の出来栄えで最終回までの視聴率が決定してしまう。バラエティー番組の視聴率は毎回の出来栄えで変動幅が大きい。対して、報道番組の視聴率は変動リスクが少ない。例え司会者やゲストが意地悪な表情で偏狭な意見を述べ続けても、取り上げるテーマは誰にも関心事であるので、映し出される記録画像を注視するのは仕方がない。1時間程度の報道番組など経費を掛けずに簡単に作れるので、局としては有難い事である。
映像は真であるが、そこに自由と公益を対立させる様な解説は偽である。
(先程から、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の公判で無罪判決の速報が伝えられている)